私は舞を習っています
2022/02/23
育児や夫婦関係。
人との関係を結ぶ中でも、私は舞の感覚が大切です。レッスンが終わって、家に帰ったら、息子とのやりとりが、舞だった。
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2月21日は、天麻那舞レッスンでした。
体験の方も来て下さって、ご自身の内側の感覚と共鳴し、大変喜んで下さいました。
舞は、あらゆる次元と響きあうことができる。それは外側の森羅万象の動きや、舞手の内側の感覚や体験、観る人の感覚や記憶。様々なレイヤーが織りなされ、時空に立ち現れます。
「これは、こういうものを表した舞です」という断定的なものはない。
水への捉えも人さまざま。
聞こえる音の捉えも人さまざま。
その時内側に広がる風景も、起こる心の動きも
人さまざま。
思い込みや主観に偏ることがないよう、決めつけや制限をかけない余白というスペースのある部分の大切さ。それは、舞手も受け取る人も。
だから感じる。生活のあらゆる場面で沢山感じる。緩め、受け取り、豊かに広がるままに「そうね、それもあるね。そうかもしれないね。そうではないかもしれないね。私からはこう見える。あなたからは、どう見える?そうね、それもあるね。」
ジャッジを超えて。
また、逆に枠や型を大切にする部分。
揺らめきやうごめきと共鳴する器(からだ)を育む。
「ここが1番しっくりとよい」という型がある。
作動させるからだの使い方がある。
噛み合う感じ。
だから、本来とても心地よく、リラックス。
長年のクセや「そうせざるを得なかった」からだの使い方で、私たちは、置き去りにしているものがあるのです。
だから、からだとの向き合いは、すぐに出来るものではなく、鍛錬を重ねてみえるものがある。
小さな声をキャッチしながら、自分と仲良くしながら育む。慈しむ。
絶妙なバランスは、実に美しく無理がなく自然体。
そう在れるように、豊かに感じ、緩め、鍛錬し。
飽くなき探求が、止められない止まらない舞の日々です☺️日々の振る舞いが舞💖
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3月レッスンは21日春分です🌸
共に舞たい方、まずは体験にいらしてください。
天麻那舞とは
http://amana-mai.blog.jp/archives/1038253530.html
私、鏡として在りたいんだ
2022/01/20
私はずっと「自分」を探しています。
それはジプシーのように「彷徨う」という感じではなく、発掘に近い。
あとは、研磨に近い。
見つけた言葉を磨いて、もっとしっくりするものにしていく。
Facebookへの投稿
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私は、まだまだ「自分」が知りたくて、
探して、
出会って、
驚いて、
納得して、
また「しっくりくる表現はないか」と掘ってみて。
色々本読んだり、ワークしたりしてます。
遊びだな(笑)
私の遊びなんだな、と思った😆
旦那さんに、「私って、何を大切にしてそうな人?」って、今やってるワークの1つを聞いてみたけど、「そんな難しいこと、分からんわー。そういうとこちゃう?」と言って終わり(笑)
旦那さんは、「じゃ、逆に俺は?」とか全く聞いてこない。興味ないらしい。なんでもいいんだって。
そうだよ、私の壮大な、飽くなき遊びなんだ。
私はこんな人だよと、しっくりくる表現を見つけて、それを「届けたい人」がいるから。響きあいたい人がいるから。
1人でやってるけど、その先には、届いてほしくて分かち合いたい人がいる。
そういうことなんだよ。だから、やめられないとまらないっていう、大好きで楽しい遊びをしてるんだ。
また1つ、今日気づいたことがあって、うふぁー💖💖って感じた。
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私はどこか、「ちゃんと実にならないと」とか、
「役立つようにしないと」とか思っていて、自分を表現する言葉が見つかることは、私が提供できるものと引き合うお客様が、私を見つけやすいような看板を作り上げることにも繋がるのかと思っていた。
でも、そんなことではない。それだけではない。
私の遊びだったんだと思ったら、なんか力が抜けた。その方が楽しいじゃないか。
私はこんな人だと発信できたら、「同じー❣️」とか「会いたいー❣️」とか、そういう人と繋がって、作りたい世界を一緒に創れるんだ。
幸せじゃないか💞
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でね、また1つ分かったことは、私は「鏡として在りたい」と思っているんだということ。これは、私のハート数9にも繋がる。
私は「鏡」
お社の「鏡」
だから、映るものが曇らないように、自らを磨く。
それには、ニュートラルでいる(フラットである)ココロや、カラダが必要。
発信方法や内容を考える時、ペルソナが浮かびにくいんだけど、神社の鏡を思い浮かべたら、納得かもしれない。
鏡が前に立つ人を、選ぶわけではないもの。
今、立った人を映すだけ。
あなたとして、すでにそこに在る。
あなたは誰なのか。思い出す。自分に問う。
見つめる。向き合う。整える。
その時に鏡として、あなたの前にいる。あなたを映す。
アドバイスをするわけでも、励ますわけでもないけれど、「大丈夫。あなたのままで大丈夫。愛されている。だからそこにいる。思い出して。あなたを思い出して。」って祈りながら、映す。
そんなことができたらいいな。
私は、イヤシロチになりたい。
だから行きたくなる。だから会いたくなる。
理由はないけど、ただそこにいたい。そんな存在になりたい。自分に還りたくなったら会いに行く。そんな場所。
だから、本当は私がいただきたい料金も、お賽銭なんだと思う。有り様として、そうなれるように、場も提供するものも、向かっていきたいな。